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さんざしの実

さんざしの赤い実も台風でだいぶ落ちた。姫リンゴの大きさで噛むと甘酸っぱい香りが口に拡がる。山田耕筰の「この道」の歌詞に出て来るさんざし。金木犀の盛りは終わった。二本ある。小菊が庭のあちこちに咲き揃い始めた。秋明菊の紅色の花も伸びてきた。紅葉は最後の緑色を放って、今か今かと赤く染め始める時をじっと待っている。秋が、見えないがすっかり準備され、いつでも始められるような微妙な季節。庭のモッコクの奥は万両の枝がようやく識別できる程の仄暗さが更に奥へ奥へと拡がっている。よくは知らないが、ガーデニングと称する西洋風の庭作りは、どの草木も全て明らかになるように配置され、晴れた日はどの植物も嬉しそうに陽を浴びているような気がする。和風の庭は暗い陰の部分をわざわざ作るのか、或いは出来てしまった陰の部分に陽を浴びせるような工夫はせずそのままにしておくのか、その暗がりが何とも言えない風情を醸し出している。苔を生かした庭も多いが、苔も少し暗く湿っぽさがないと美しく育たない。庭の隅々までライトアップして明らかにしてしまう心持ちは和風庭園には無い。陰の所に何かがありそうな興味、創造が湧く。虫の音もその暗がりから聴こえてくる心地がする。小鳥がバサッとそこから飛び立ったのか万両の仄暗い枝が揺れたような気がする。

暗闇を愛でる風情はだんだん世の中から失われつつあるが、暗さの奥に向かって想像すると何かが在り、うごめいているような怖さのドキドキは失いたくない感覚だ。何もかも明らかにならないと気が済まない、或いは明らかになっているという錯覚の中にどっぷり浸りつつある現代。僅かに残っている本当の暗闇を大事にしたいと思う。

 陽に当たったさんざしの赤い実がひときわ鮮やかな秋の日。

2016.10.10

秋ナス

最果ての東の小さな島国日本の誰もが知っているシューベルト。31歳でこの世を去った時は、ヨーロッパはおろか、生まれ育ったウィーンですらその名を知る人は限られていた。生前、ほとんどその才能が世に知られていなかった彼の死んだ年。「幻想曲」という名のピアノとヴァイオリンの二重奏曲を彼は書き残した。

その曲を今年のリサイタルで演奏した。

いろんな野菜を作り始めて20年は経って、最近は耕運機を使って本格的にやり始めたが、どの解説書にも作り易く初心者向けと書いてあるナスが昔から相性が合わず、まともに育った事がない。ナスだけは心が砕けて、苗に手を出せなくなってもう十数年になるだろう。

もともと楽器の演奏が不得手な当時としては珍しい音楽家シューベルトが、この「幻想曲」ではヴィルトゥオーゾな超絶技巧を要する曲に仕上げている。パガニーニやリストも一目置く演奏家に遭遇し刺激を受けて書く事に思い切ったようだ。

そのナスを思い切って3株のみ今年は買った。そして植えた。おそらく駄目だろうと見越してあまり肥沃な場所には植えなかった。

「幻想曲」をさらい始めて、何とも難しい。誤魔化したらどうにかいくが誤魔化しが効かない。取り組み始めて深いため息を人知れずするような日々が続く。

植え付けたナスは案の定うらなり然として、成長という意志をどこかに置き去りにしたような姿を来る日も来る日も晒していた。同じく植えた8株のトマトはみるみる太く高くなる。キュウリも毎日毎日つるを伸ばし空へ空へと成長し始めた。

シューベルトの歌曲の持つ比類ない抒情性を息づかせ、なお超絶技巧の鮮やかさをピアノもヴァイオリンも強く求められるこの曲は、魅力的であるからこそ余計に上手く弾ける見通しが立たない。

ナスは少し伸び、何よりも芽の紫の濃さが希望を与えてくれる。芽の紫が濃ければ濃い程、成長している証。

リサイタルの本番は「幻想曲」は一つの域を乗り越えられ、皆さんに喜んでもらった。

無事終えて十日ぶりに岩国に帰り、すぐ畑に出向いた。ナスの苗はぐんと逞しく張り、黒に近い芽がいくつも付いていた。濃い紫のナスの芽は梅雨の中休みの強い日を浴び、正しく天を向いて真夏を待つ。

夏休みの大勢の来客に喰われるのを待つ。

真っ青で静かな瀬戸内の海ぞいを岩国から山陽本線で下って徳山の近くになると車内放送で

「岩徳線乗り換え!高水・岩国方面岩国行きは1時間40分の連絡です。」

1時間40分も待たされてもここでは連絡と言う。

宇部線、岩徳線、山口線など支線への乗り換えは15分〜20分位の待ち合わせなら「すぐ電車が来る」という感覚になってしまう。30分〜40分だと「まあまあ」1時間以上になると「ちょっと待つか!」

東京で山手線を10分も待たされると「いらいら」してくる。20分だと「言語道断!」
月に二度くらいは東京に行って、それぞれ4〜5日滞在するので、この東京での「いらいら」と、山口県の支線を使うこともあるので何とも言えない「のんびり」と両方体験しながら生活をしている。

便利さと無駄を省くことを追求すると大都会の時間の流れになる。これからも物理学を基とした科学主義を基礎に置いた経済の原則を前面に人の生活は更に速度を速めて変化していくであろう。

その大都会の効率主義に遅れざるをえない地方の街。さらに取り残されてしまうもっと小さな村々。中国地方には中国山地の山あいと瀬戸内海の離島に無数といっていい程そんな過疎と呼ばれる集落が点在する。そこには今でもゆったりとした時間が流れて、その時間に乗って日が昇り日が暮れて人々が営みを続けている。バスは一日1本のみ。診療所には週三日だけ非常勤の医師が来るのみ。コンビニもスーパーも無い。そんな環境の中でゆっくりと時間を感じながら生活している人々の心根と、一分でも時間が惜しく、お互いにいらいらしながらひしめき合って一日が終わる大都会とを月に両方感じながら生活していると、人間とは限りなく柔軟性があるものだと感心する。

便利さがもたらす精神的不安と、不便さがもたらす精神的不安の比較は単純には出来ないが、便利さの方は不安に陥っているという自覚症状があまり無いという特徴があるように思える。

 

今夜も囲炉裏に炭を入れて晩酌。

炭の時折バチッという音をどきっとしながら聴き、程よい熱さの日本酒を喉に流し込む。

2016.3.10

石蕗の花が鮮やかに咲いた。
晩秋。
ノーベル賞を今年二人の日本人が貰った。難解な学問由、全てはとても解らないが、テレビ、新聞で一般大衆にその業績が解り易く説明されるので、解ったような気持ちにさせられる。
凄いと思う。
まだ発見されていない真理を見つけ出す喜びは科学者のみならず誰しもが持っている人間の一つの特性ではあろう。とは言ってもそういった真理を見つけ出したいという強烈な欲求を持ち続けられる人のみが新たな真理の発見という世界に踏み込める。そうして見つけ出された真理は誰がやっても同じ結果を何度でも再現が可能という法則である事が真理なる所以である。やる人によって結果がまちまちで10人やれば10通りの結果が出るのでは困る。

じっと手を眺める。
ヴァイオリンを弾いていてこの楽章はこう弾きたいと思う事が決まれば、そうするには、といろんな事を考え、それを基に何十回も繰り返し繰り返し練習をし、何とかその思い通りの演奏を何回でも再現できるような努力を一心不乱にし続ける。(ノーベル賞を貰う学者にも負けず劣らず何十年も一つの事に向かい続ける)
そんな思いで演奏に臨むが、毎回微妙に、しかし確実に演奏は異なる。
10回弾けば10回の別の演奏になってしまう。ましては違う人間が弾けば、その人間の数だけ全く違う演奏結果が生まれる。これは自明の理である。むしろ他人には再現できない世界をひたすら求めているのだろうか。
誰が何度でも同じ結果を出す事のできる物理学の真理の対極に位置しているのだろうか。
だが、受賞の知らせがありその業績が報じられると無条件に嬉しい気持ちがふつふつと湧いてくる。

最近私は、曖昧なものへと価値観がだんだん傾斜しかかっているようである。
明らかではない物への魅力。漠然とした不確かな物への興味。
庭の奥の竹林を通り抜ける風の音の一つとして同じ音がない事をえらく感心して、濡縁でいつまでも聴き惚れている。
竹林にまた風が通り抜け、高い所が少し揺れた。夕暮れも深まり、空の色は刻々と生き物のように変わりつつある。
こういった現象は物理学の法則がもたらすものであろうが、見ていると、夕焼けの色の変わりようの耐え難い程の美しさに何の法則もなくて、ただそこに拡がりゆく空と雲があるだけのような曖昧な気持ちが、これから訪れるであろう夜の闇の拡がりのように静かに湧いてくる。

石蕗の花の輝きは夕闇の庭の奥へと消えた。
啓一郎の徒然草 vol.46


二年ぶりに雙津峡の蛍を観に行った。
岩国錦帯橋のかかる錦川の上流、宇佐川と呼ばれる支流に拡がる錦町。現在は岩国市になっているが県有数のワサビの産地として知られてい る。林業を何百年も営んできたこの地域は山また山で、森林が重なり合い、水も澄み、この上ない上質の空気と水に恵まれている。オオサンショウウオの生息地 としても話題になっている。
小さな懐中電灯の明かりさえも邪魔になる蛍の光を支えるのは闇の力。日本全国市街化してほとんど失われてしまった闇がこの地域にはまだ 残されている。真の闇は一つの黒い色ではなく、数多くの黒から成り立っていて、それを黒色と一言で言っていいのか戸惑う。闇はいろんな色が溶け込んでいて 成り立っている闇色とでも言うべきか。
案内の車の光をすべて消すと漆黒の闇。蛍の光の点滅はその闇に支えられ、また闇も蛍に支えられ、温かで、豊かな世界をそこいらに創り出 している。その闇に身を置いて蛍と一緒に息をしていると、人間の角が少しずつ溶かされ平和な顔になっていく。闇と蛍の光に慣れきってくると一瞬足元を照ら す小さな懐中電灯も人工の暴力的な光と感じてしまう。
蛍の光の点滅しか存在しないその闇夜の中で、久し振りに昔から重く沈んでいた何か大きな存在の顔を見たような気がした。
大都会では一晩中、照明が街中を空までも照らし、商業用の音が絶え間なく流れ続けている。インターネットを点ければ世界中の明らかな情報が詳細に発信し続けられている。グローバルという言葉の下であらゆる物が明らかに、鮮明に、しかも平等に扱われている。
余りにも明るく解りすぎて、かえっていろんなことが少しずつ解らなくなってきているのではないか?
そんな方向に人間は何故か更に更に進もうとしている。
闇では見えていたものが、見えなくなっていく。
たまには電気を消してみよう。

2015.6.21. 石井啓一郎