それに伴って宏樹庵ブログもサイトのコンテンツブログ「宏樹庵便り」として移転しました。
演奏会スケジュールやプロフィール他、啓一郎の徒然草などもブログとして掲載しています。
今後共よろしくお願いいたします。
石井啓一郎・啓子公式サイト
宏樹庵便り
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石井啓子の母、米本一幸の書庫と次男宏二郎のアトリエ棟「幸明館」が完成した。
米本一幸は日本のかな書道界を牽引している書家の重鎮で、毎日書道展で文部科学大臣賞などを受賞している。今年90歳。書歴は長く、作品が自分の家に収納しきれなくなり、岩国には土地があるようなので書庫を建ててくれないかと持ち掛けられたのが5年ほど前。早速どこに建てたらいいか検討した結果、自治会館の横の土地がいいのではということになった。しかし、調べてみるとその土地は市街化調整区域の畑地。それを宅地に変更するのが大変だった。私の直系の子供が、それも他に土地を所有していない子供が自分の家を建てる時のみ許可されると言う。そこで岩国に住むかどうかもわからないまま、宏二郎の住居を建てることになった。書庫は付属した建物として申請。いろいろな申請書を提出して、長い月日を費やしてやっと許可が下りたと思ったら、今度は建てる場所が道路から高い所なので、広島の土砂災害などの後だったため、地盤調査を行い莫大なコンクリート壁で固めないといけない事になった。それにまた1年を要する。ようやく家が建つ平らな土地が出来て地鎮祭を執り行ったのが昨年3月15日。大きな太鼓の音が山にはね返ってこだまになってこの辺り一帯を満たした。
やっと、家が建ち始める。しかし、これがまた延々と、宇宙空間にもつながるかのような時間の流れ方だった。木造の家をと知り合いの大工さんに頼んだのだが、彼が紹介してくれたのが広島の設計士。二人のこだわりで木組み、土壁の設計図。釘を使わず組まれた屋根、竹で編まれた土壁の芯は、それはそれは大変美しかった。その芯に幾重にも土を塗り、乾いてはまた塗り、また乾くのを待つ。大工さんもここまで徹底的に土壁だけでやったことはなかったので工期が大幅に延びる。やっと壁ができ、それから建具や物入れなどを作り始めた。
一昨日は展示室の照明を取り付けた。
今は4月8日の落成式までにある程度までの庭を作ろうと庭師さんが一生懸命敷石などを並べている。
落成式には母も東京から来る。
うぐいすがきれいな声で鳴いている。ここにどれを展示するか、私は200点ほど送られてきた母の作品のいくつかを取り出して見始めた。
]]>演奏活動40周年のリサイタルです。
今から40年前、1977年6月8日、東京文化会館小ホール19時、シューベルトのDuoが鳴り響き、第1回目のリサイタルは始まりました。それから欠ける事なく、同じパートナーで200曲近い曲を演奏し続けてきました。外山雄三のヴァイオリンソナタの初演もありました。師ミルシュタインの84歳のラストリサイタルのライヴCDが残されていて完成度の高いみずみずしい音楽は衝撃的です。
夢を追い求め、弾き続けたいと思います。
石井啓一郎
6月1日(木)19時より京都コンサートホール小ホール
6月4日(日)18時よりヒストリア宇部
6月15日(木)19時より東京文化会館小ホール
プロコフィエフ:5つのメロディ
モーツァルト:ヴァイオリンとピアノのためのソナタK378
ヴィエニアフスキ:モスクワの思い出
パガニーニ:カンタービレとワルツ
ベートーヴェン:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第9番「クロイツェル」
お問い合わせ 啓&啓倶楽部 kayishii0410@ybb.ne.jp
]]>この保育園に新しく木造のホールが出来てからのご縁で、毎年この時期に来ている。15回目程になろうか。子供の数は減り続けているはずなのに入園希望者は年々多く、現在140人もの園児をかかえる人気の保育園。プログラムはエルガーの愛の挨拶に始まって、ベルトミューのフルートとピアノのための組曲より2曲、そしてその後、となりのトトロで晴香と絢香の出番。原曲を基に、私がヴァイオリンが弾きやすいイ長調にして、ヴァイオリン2本とフルートとピアノ連弾の曲に編曲した。晴香たちは本番25日の前日に岩国に来て初めてみんなで合わせて練習した。晴香と絢香だけのフレーズもあり緊張する。練習の初めはその二人だけのフレーズが何となく頼りなかったが、だんだん調子に乗って来て、当日の朝も自分から練習すると言い出す。そして迎えた本番。二人とも音楽に乗って楽しそうに弾いていた。緊張はしたと思うが、良い緊張だったのかもしれない。二人は別に専門家にさせるつもりはないので、永く音楽を楽しんでくれたらいいと思う。音楽を楽しむ。弾くことを楽しむ。楽しむ人と人との出会い。これを大切にしていきたいと思う。親、子供、孫三代の演奏ももう少し続けよう。
コンサートの最後には園児たちが「虹」「春が来た」「あしたは晴れる」を歌った。その元気のいいこと!!! 潮風に当たりながら散歩しているからだとか。パワーをたくさん分けてもらった。
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これは2005年2月のディナーコンサートに合わせて制作された宏二郎の竹のオブジェの一つだった。近所の三人組が竹やぶから太さの揃った竹を200本以上切り出して持ってきてくれた。竹のオブジェは竹垣だけでなく、階段を灯す明かりや絵を展示する屏風も制作された。竹垣は美しい曲線を描き、中にロウソクを灯すこともできた。全部で竹195本、12メートルほどの長さがあった。
それからちょうど干支が一回りして、今年初め、非常に風の強い日があって竹垣は傾きかけた。つっかえ棒をして起こしたが、なんともみすぼらしい。ついに撤去を決心する。1本1本手で引き抜こうとしたら、もうぼろぼろになって、燃やすことも出来ないほどの物は大きなゴミ袋に入れて捨てた。
制作を手伝ってくれた近所の三人組の一人一人の顔が思い浮かんだ。
今、石井が練習室として使っている元は蔵だった家屋を、ローマから帰ってくる秀太郎の工房にリフォームしてくれたのもこの三人組。あの頃は三人ともとても元気だった。しかし、その一人はもう他界し、もう一人は元気で、元この地域の長だけあって未だに言うことには重みがあるが、80歳を越えて啓&啓倶楽部スタッフ会議にももう姿を現さなくなった。三人組の中で一番若い人も77歳。まだ仕事をしていて忙しいが、前のようにこの家に関わる余裕はもうない。
12年の年月の重みを、消えた竹垣に感じた。
宏樹庵にはもう一つ、解体を待っている物がある。
2階のテラスに置かれた露天風呂。八女の桶屋さんに作ってもらった檜の巨大な桶。直径1.5メートル余り。これが置かれた頃は一人でゆったり星を見ながら入り、お客の一人が作ってくれた湯船に浮かべるお盆でお酒を飲んだり、谷から迷い込んできた蛍をながめたり。私一人で使うだけではもったいないので、近所の人を誘って何人かで入りに来てもらったこともある。「お風呂の会」と呼んでいた。「お風呂の会」は当然飲み会にもなり、それが高じて「啓&啓倶楽部」が発足する。啓&啓倶楽部の最初の取り組みは2002年のシンフォニア岩国コンサートホールでの二人の演奏会。800人以上の聴衆を集めて大成功だった。
それからずっと経って、お風呂として使わなくなっても、夏、子供達が来て水遊びに使っていた。木が生い茂ってきて、見張り役のお母さんにとってはちょうど良かった。
しかし、もう檜はぼろぼろ。留め金のネジを抜いたら上二つの鉄の輪は下にストンと落ちた。
近いうちにチェーンソーで切って薪にしよう。17年間の思い出が美しい炎に現れることだろう。
作ったばかりの竹垣、竹の青さも美しかった。
宏二郎展の間、暗くなると竹垣の中にロウソクが灯された。
きれいさっぱり何もなくなった。
解体を待つ露天風呂
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ベートーヴェンの代表的な作品、ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第9番「クロイツェルソナタ」やベルトミューのフルートとピアノのための組曲など聴きごたえのある曲とチゴイネルワイゼンほか楽しい曲をお送りします。
是非お誘いあわせの上ご来場下さい。
チケットはシンフォニア岩国で取り扱っていますが、啓&啓倶楽部の事務局にメールしていただけましたらすぐお送りいたします。
全席自由 一般3000円(当日500円増) 高校生以下無料(事前にお申し込みが必要です)
啓&啓倶楽部事務局 kayishii0410@ybb.ne.jp
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岩国のインターから高速道路に入ったのが朝10時頃。1時頃、新岡山港に着くとフェリーはたった今出港したばかりだった。50分程ゆっくり待っていざ小豆島へ。70分の航海は大変穏やかだった。宿は小豆島の土庄(とのしょう)港からあまり遠くなく、窓のすぐ下に海が広がっている。調べると5時に日の入りとの事で、のんびりとお風呂に入ったりしながら待つ。露天風呂からの景色も抜群なのがわかって4時半ごろまた今度はi Padを持って入る。水平線辺りに雲があったが沈んでゆく夕陽は美しかった。急いで部屋に戻り、その続きを撮る。夕焼雲が放射線状に拡がり、鏡のような海に光が映る。雲の隙間から最後の光を放って陽は沈んだ。
翌日は朝9時前に宿を出発。まず寒霞渓へ。ロープウェイに乗る。小豆島へ来てみるまで、この島が元は火山で、こんなに雄大な紅葉の渓谷があるとは知らなかった。10月紅葉の頃はそれはそれは素晴らしいだろうなと想像できるほど、今も十分に圧倒されるような素晴らしい眺めだった。山には岩がそそり立ち、谷は広がって海へと下っていく。穏やかな海には島がいくつも浮かび、水平線を遮っている。かなりの急こう配をロープウェイは降り、そして戻ってきた。帰りのロープウェイから山の端に丁度半分に欠けた月がかかっているのを見つけた。
そこから山を下り、岬の先端にある二十四の瞳のモデルになった分教場を見学。3つしかない教室には昔のまま絵が展示されていたり、オルガンや小さなピアノが置かれていて、子供達の声が聞こえてきそうだった。 分教場 陽だまりに子ら 声残し
道の駅でお目当てのオリーブオイルを手に入れた後、土庄港から今度は高松に渡った。こちらのフェリーは60分ほど。高松市があまりに大きな都会なのでびっくりしたが、何とか手打ちうどんの店を見つけて鍋焼きうどんをいただく。味噌仕立てで、人参や大根やいろいろなものが入っていて美味しかった。そこから瀬戸大橋を渡る。途中、与島のPAで降りて、海の上を渡る大橋を見上げた。連なる橋げたと海との調和が美しかった。
夜ご飯も途中で食べて、家に帰ったのは夜6時半頃になったが、最後まで晴れていて良かった。大満足。
新岡山港から出るフェリー。全長66メートルあり甲板のお客さんも合わせると500人乗船可能とか。
行き交うフェリー
小豆島に近づく
露天風呂から眺めた夕陽。お風呂のお湯にも夕陽の光が。
部屋からの落日
寒霞渓
ロープウェイからの眺め
紅葉の頃はさぞ美しいのだろうな
山の端に月が出ているのに気づく
岬の分教場 よく保存されていると感心
教室にはピアノもあった
高松港に近づく
鍋焼きうどん
与島から見る瀬戸大橋
]]>トゥリーナのピアノトリオ第1楽章のテンポの変化の確認、第2楽章は8分の5拍子なのだが今一つ呼吸が合わず3回目でようやくすっきり。久しぶりのデュオだった陽子は珍しく緊張してか第3楽章の途中、入ってくる所を間違えたり…ラヴェルのピアノトリオは客席で聴いていたステージマネージャーその他の人達がピアノの音が大きすぎて弦楽器の音が全然聴こえないと言い、演奏者の位置を変えたりピアノの音をコントロールしたり。ピアノがフルコンサートピアノだし、音はものすごく広い音域にまたがっているし、音の数も多いから余程のコントロールが要る。特に弾いてみたかった曲なのに上手くいかなかったらどうしよう… 会場練習は通常5時で切り上げるのだが、6時までかかってしまい胃が少し痛かった。
7時開演。覚悟を決めて舞台に。
トゥリーナの夜明け、ピアノトリオと進むうちに少し落ち着いてきた。プーランクのフルートソナタは陽子に寄り添って弾けばうまくいくと思っていた。案の定、会場練習の時と違って陽子は陽子ワールドを拡げていく。第3楽章、少し速いかなと思ったがミスもなく終えた。後半はラヴェル。ハバネラ形式の小品を石突美奈ちゃんと。そして最後にピアノトリオ。難しい和音でのメロディラインも滑らかに歌えて、まあまあかなと。
拍手は多かった。お客様もお蔭様で400人ほど入っていた。
アンコールの亡き王女のためのパヴァーヌと、やっとほっとする曲、クロンケの2匹(?)の蝶々ではブラボーが出た。
この会も27回目。2013年に25回を終えて翌年番外編で開催した2014年からは桜庭茂樹氏という強力な共演者を得て、このアンサンブルシリーズも一つ上のランクに位置付けられるようになった。そして陽子との共演もお客様が楽しみにしているようだ。
これからもどうぞよろしくお願いします。
トゥリーナ
ピアノとヴァイオリンとチェロのための幻想曲「環」より
夜明け
石井啓子 石井啓一郎 桜庭茂樹
トゥリーナ
ピアノとヴァイオリンとチェロのための三重奏曲第2番 作品76
Lento – Allegro molto moderato
Molto vivace
Lento – Andante mosso
石井啓子 石突美奈 桜庭茂樹
プーランク
フルートとピアノのためのソナタ
Allegro malinconico
Cantilena
Presto giocoso
石井陽子 石井啓子
kk 休憩 kk
ラヴェル
ハバネラ形式の小品
石突美奈 石井啓子
ラヴェル
ピアノとヴァイオリンとチェロのための三重奏曲
Modere
Pantoum Assez vif
Passacaille
Final Anime
石井啓子 石井啓一郎 桜庭茂樹
アンコール
ラヴェル
亡き王女のためのパヴァーヌ
石井啓子 石井啓一郎 桜庭茂樹
クロンケ
2匹の蝶々
石井啓子 石井陽子 石突美奈
娘たちと。最後のアンコールは女ばかりで演奏。それも華やかでいいねとの評判だった。
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このピアノ三重奏曲については、戦争に行くことになりもはや生きては帰れないかもしれないと覚悟を決めて書かれた曲なので「遺言状」と捉える説がある。しかし、戦争というものは始めた者たちは自分が負けるとは思わないものらしい。フランス兵は高らかに「ラ・マルセイユ」を歌って戦場に出かけて行ったと言う。ラヴェルも多分自分が死ぬという凄惨な覚悟を決めて戦地に赴いたのではなかったのではなかろうか。
この戦争は結果的には悪条件が重なり長期戦となって、世界中におびただしい数の死者を出し被害も甚大なものとなってしまう。
これによってヨーロッパの君主制は崩壊し、ブルジョア階級は衰退して今まで思いつきもしなかったような形式の市民のための自由な芸術が多く芽吹いてくる。
トゥリーナは1882年にスペインアンダルシアのセビリャで生まれる。セビリャはアンダルシアの中心都市で数々の名作オペラの舞台としてクラシック界でもお馴染みの街である。初めマドリード音楽院で学ぶが1905年にパリに渡りスコラカントルムで作曲、ピアノを学ぶ。そこでドビュッシーやラヴェル等とも知遇を得るがアルベニスやファリャからスペイン民謡やアンダルシアに根差した音楽を確立することがセビリャ人としての使命と助言を受け1913年スコラカントルムを卒業後1914年にファリャと共に帰国する。その後、作曲家、教師としてスペインのアルベニス、グラナドス、ファリャに続く功績を遺す。
今回演奏する作曲家のうち一番若いプーランクは1899年パリ生まれ。裕福な家庭で母にピアノの手ほどきを受け、1914年からはスペイン出身の名ピアニストでラヴェルの作品を多く初演したリカルド・ビニェスにピアノを師事する。ビニェスの紹介で後のフランス6人組のメンバー、ジョルジュ・オーリックやサティらと出会う。ラヴェルにも会っている。
lピアノとヴァイオリンとチェロのための幻想曲「環」より「夜明け」
トゥリーナ(1882〜1949)
トゥリーナはピアノとヴァイオリンとチェロのための曲を3曲書いている。第1番は1926年、これによって国民音楽賞を受賞した。第2番は1933年、そして「環」は1936年に書かれた。スペインの語法を用いながら印象主義的な雰囲気、色彩を持つ曲となっている。この曲も夜明け前の静寂の中から徐々に夜が白み始め陽が昇ってくる美しい情景が感じられる。
lピアノ三重奏曲第2番 作品76
トゥリーナ
第1楽章 静かな序奏の後優雅な旋律が始まる。ゆっくりした部分でチェロが歌い始める歌は美しい。
第2楽章 8分の5拍子のスケルツォ。1楽章を思い出させるような中間部がある。
第3楽章 序奏の後に始まるのは決然としたメロディ。1楽章のフレーズを時々取り込んで、最後は初めの決然としたメロディをピアノが8分の3、弦が8分の2の拍子で奏で長調になって終わる。
lフルートとピアノのためのソナタ
プーランク(1899〜1963)
プーランクは自分の音楽観を決定したのはシャブリエとサティ、ラヴェル、ストラヴィンスキーの4人だと言っている。生粋のパリ人だった彼の音楽にはユーモアとアイロニーと知性が溢れている。この曲はフルーティスト、ランパルの助言を受けながら1956年12月から翌年3月にかけて作曲されランパルと作曲者自身のピアノで初演された。
第1楽章 アレグロ マリンコニーコ 憂鬱にという意味だがパリの憂鬱は日本のようにじめじめしていない。
第2楽章 カンティレーナ 抒情的な歌曲
この曲がよく演奏されるのはこの楽章の美しさからだと私は思う。フルートの歌に高雅な哀しみを感じる。
第3楽章 プレスト ジョコーソ 一転して楽しい調子になる。フルーティスト ラルデの公開レッスンを陽子が受けた時「出来るだけ速く」と言われたそうだ。曲の最後にはプーランク自身が「絶対遅くしないで」と書き込んでいる。
lハバネラ形式の小品
ラヴェル(1875〜1937)
ハバネラというのは元々特徴的なリズムを持つキューバの舞曲でスペインに渡り19世紀ヨーロッパで盛んにもてはやされた。一番有名なのはビゼーのオペラ「カルメン」の中で歌われるハバネラ。ラヴェルもこの曲以外にスペイン狂詩曲でも使っている。
lピアノ三重奏曲 ラヴェル
ラヴェルはフランスと言ってもスペインに近いバスク地方のシブールで生まれた。母はバスク人であり、子供の頃はバスクとスペインの歌で寝かしつけてくれたとラヴェルは言っている。バスクの古い民謡は8分の7や8分の5のリズムから成るものが多く、この三重奏曲にも数多く出て来る。この曲を一気に書き上げたのもバスクのサン・ジャン・ド・リュスの街だった。ラヴェルはピアノ三重奏曲を1曲しか書いていないが、彼はこの曲ではどの楽器も非常に広い音域を駆使している。ピアニストは10本の指しかないのに楽譜は時折3段になり、最低音はピアノの鍵盤の一番低いラの音、最高音は鍵盤の一番上のドのすぐ下のラ。
第1楽章 ピアノの透明な音色の旋律から始まる。8分の3、8分の2、8分の3に分かれる8分の8拍子。これもバスク地方の音楽の特徴。
第2楽章 3拍子で書かれているがアクセントと小節の拍がずれている。中間部は弦は4分の3拍子のまま進むがピアノは2分の4でコラール風の旋律を奏でる。
第3楽章 パッサカーユ 深い沈黙の底から湧いてくるような音楽。
第4楽章 3楽章から切れ目なく突入。ヴァイオリンのフラジオの分散和音とチェロのハイポジションの和音に載ってピアノが歌いだす。4分の5と4分の7拍子が目まぐるしく入れ替わり、最後は情熱的に盛り上がって曲を閉じる。
前にも載せましたが、あれから少し書き直して解説も書きました。
あと2週間後です。是非いらして下さい。
]]>針間産婦人科院長 金子法子
日本性感染症学会認定医
今年おイネ賞受賞
自分の医院での診察だけにとどまらず講演、学会、講習会と秒単位で日本各地 を飛び回っているパワフル女医。その根底にあるのは人の生に対する熱い思い。
クラシック音楽には造詣もなく、たまにコンサートに出向いても交響曲以外は必ずと言っていいほど睡魔との闘いになる、全くもってこの場にエッセイを書くには不似合いの我が身ではありますが、石井先生の御子息が前院長の時代に当院でお生まれになったこと、そして個人的にも最近、御夫妻と親しくさせて頂く機会に恵まれたことより、執筆依頼をお引き受けした、山口県宇部市で産婦人科を開業している金子法子と申します。
針間産婦人科は昭和44年の4月に宇部市常盤町に開業した、今年で48年目を迎えた古い医院です。私は4人兄弟の一番上で、先代院長の長女ですが、別にどうしても産婦人科医になって家業を継がなきゃいけないという立場ではありませんでした。しかし、蓋をあけてみれば、弟二人は精神科医として東京で活躍、一番下の妹は難民を救うNPO団体で働き、香港を拠点としています。亡き父は針間法人、私の名前は父の字を一字もらっての法子。兄弟の中で一番出来の悪かった私が産婦人科医となり跡を継ぐことになろうとは夢にも思っていませんでしたが、やはり法子という名前が付いた時から、これも天命だったのかなと今ではそう感じています。平成13年の6月に、脳出血で69歳という若い年齢で突然仏様となってしまった父の跡を継ぎ、現在に至っています。
当院は気がつけば市内で一番古い産婦人科医院となり、内装はまめに変えてはいますが、建物そのものは立て替えることもないまま、昔ながらの昭和の容貌のままです。それでも毎日たくさんの患者さんが来院して下さっています。お産もたくさんはありませんが診ておりますし、三代続けて当院でお世話になります、、、という方も多く、また、お若い時からずっといらっしゃっている方も多くて、家族背景まで把握している患者さんも少なくありません。それでもまだまだ産婦人科の敷居は高く、父の跡を継いだ時から、私が外に出て行き、産婦人科がどのような場所で、どんな性と生のドラマが繰り広げられ、命と日々大事しているかを伝え、地域の女性の駆け込み寺でありたいと今日まで過ごして参りました。もうかれこれ15年くらい続けている、県内の小中学校への性教育講演は、私のライフワークの核となるもので、それに付随して、女性への健康教育、人権教育の一環としての性と生を考える講演、最近は加えて、DVやレイプ、虐待などなかなか当事者が声を上げられない事例に対して、行政や各関連機関とネットワークを結び、向き合っていることも大切にしています。そして、全ての命が望まれて生まれてくることを祈りつつ、正しい避妊知識や妊娠の仕組みが解らないまま妊娠したり、知識はあってもNO!が言えずに妊娠に至り悩み苦しんだり、解っていても、家に帰っても自分の居場所すら無い子どもたちが、寂しさの穴埋めにセックスに走ることに対して、一切責めることなく、辛い話を勇気を持って話してくれたことに対して感謝し、これからの未来に向かってどうすることが一番いいのか共に考えて行く、、、そんな関わりをずっとして来ています。
世間は「負の連鎖」の一言で済まし、テレビや新聞では評論家がまことしやかに原因などを話していますが、現場は一人一人が抱えている内容も重さも違い、それらを丁寧に根気よく聞いていき、一度も誉められたことがない自尊感情も低い子たちに、それでも未来はあるし、いい方向に進むんだと体感してもらうには、我々大人はまずは今を認め、心を抱きしめ、いつでもいらっしゃいと手を差し伸べることこそ大事だと思っています。核家族どころか、親子関係が複雑で孤立したお子さんや貧困に悩む御家庭もたくさんあります。もし若いママが街で赤ちゃんを抱っこしている姿を見つけたら、「可愛いですね。良く笑いますね。あやし方が上手ですね。」と声をかけてあげて下さい。それだけで救われるお母さんはたくさんいます。社会がもっと優しくなって欲しい、身体の障がいはもちろん、生き方の多様性にも優しく寛容であって欲しいと心から願います。
この度、シーボルトの娘で、日本で最初の女医、楠本イネ先生にちなんだ「おイネ賞」という、地域貢献や学究に勤しみ、女医のロールモデルとなり得る医師一名に贈られる、身に余る賞を日本医師会からの推薦により受賞することとなりました。私でいいのですか?という気持ちは今もあるのですが、これから残りの人生を、もっともっと悩める女性のために生きなさいという叱咤激励の賞だと理解し、表彰式に臨もうと思っています。
石井御夫妻の奏でる素晴らしい音楽も、私の日常も、180度違うようで実は共通点もあるように思います。生き辛いと思う人たちの心の栄養になりたい、、、それは形こそ違えど同じベクトルの先を向いているのではないでしょうか。これからも微力ながら、地域と共に歩んで行きます。
高校生に対する性教育
中学生が対象
小学生が対象になることも
]]>このピアノ三重奏曲については、戦争に出向くことになってもはや生きては帰れないかもしれないと覚悟を決めて書かれた曲なので「遺言状」と捉える説がある。しかし、戦争が始まった当初は戦争はクリスマスまでには終わるだろうと思われていた。フランス兵は高らかに「ラ・マルセイユ」を歌って戦場に出かけて行ったと言う。ラヴェルも多分自分が死ぬという凄惨な覚悟を決めて戦地に赴いたのではなかったのではなかろうか。
この戦争は結果的には悪条件が重なり長期戦となって、世界中におびただしい数の死者を出し被害も甚大なものとなってしまう。
これによってヨーロッパの君主制は崩壊し、その後、各地で自由な芸術が多く芽吹いてくる。
トゥリーナは1882年にスペインアンダルシアのセビリャで生まれる。セビリャはアンダルシアの中心都市で数々の名作オペラの舞台としてクラシック界でもお馴染みの街である。初めマドリード音楽院で学ぶが1905年にパリに渡りスコラカントルムで作曲、ピアノを学ぶ。そこでドビュッシーやラヴェル等とも知遇を得るがアルベニスやファリャからスペイン民謡やアンダルシアに根差した音楽を確立することがセビリャ人としての使命と助言を受け1913年スコラカントルムを卒業後1914年にファリャと共に帰国する。その後、作曲家、教師としてスペインのアルベニス、グラナドス、ファリャに続く功績を遺す。
今回のアンサンブルシリーズで演奏する作曲家のうち一番若いプーランクは1899年パリ生まれ。裕福な家庭で母にピアノの手ほどきを受け、1914年からはスペイン出身の名ピアニストでラヴェルの作品を多く初演したリカルド・ビニェスにピアノを師事する。ビニェスの紹介で後のフランス6人組のメンバー、ジョルジュ・オーリックやサティらと出会う。ラヴェルにも会っている。
12月5日に演奏するトゥリーナとプーランクとラヴェルの1914年の動きをまとめてみました。
合わせの練習も始まりました。
是非皆さんお誘いあわせの上ご来場下さい。
]]>暗闇を愛でる風情はだんだん世の中から失われつつあるが、暗さの奥に向かって想像すると何かが在り、うごめいているような怖さのドキドキは失いたくない感覚だ。何もかも明らかにならないと気が済まない、或いは明らかになっているという錯覚の中にどっぷり浸りつつある現代。僅かに残っている本当の暗闇を大事にしたいと思う。
陽に当たったさんざしの赤い実がひときわ鮮やかな秋の日。
2016.10.10
]]>宇部興産が地域の人達への企業としての還元事業でチャリティーコンサートとして定着している。本公演の前日には山口大学付属病院や宇部興産中央病院でのロビーコンサートが行われる。これは病院の患者さんや職員の人達だけでなく広く市民にも開かれ客席はいっぱいだそうだ。また市内の中学校でのレクチャーコンサート、チケットの売り上げで学校への楽器贈呈、そして本公演。今回は9回目で指揮者に大友直人氏、ヴァイオリニストに南紫音さんが招かれた。プログラムはメンデルスゾーンの序曲、コンチェルト、交響曲第4番「イタリア」。本番直前に舞台に大友氏と南さんが登場して曲に対するトークなどあり、期待が膨らむ。
余りにも有名なヴァイオリンコンチェルトを南さんは憂愁たっぷりに美しく歌い上げた。
終演後は全日空ホテルにて打ち上げ。宇部興産社長、宇部市長などお歴々の参加で大層盛り上がった。河村建夫氏、林芳正氏も見えていた。挨拶の後の締めは日本フィルのメンバーと宇部市民オケのメンバーによる弦楽合奏そして「青い山脈」と「故郷」の合唱。今年も楽しく有意義に演奏会は終わった。
開場前から長蛇の列
大友氏と南さんのトーク
打ち上げでの演奏
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木楽輪は元は木造館と呼ばれていた。この地方のエゾマツやカラマツをふんだんに使って美しい曲線を描くホールは大変よく響く。会場に午後3時前に入り練習し始めた時、ちょっと響きすぎて戸惑った。カーテンを閉め、ピアノのコントロールにも徐々に慣れ、ようやく落ち着いてきた。
岩国では10月に入ってからも30度近くまで気温が上がり暑かった。旭川へ出発する日の朝やっと涼しくなった。天気予報で旭川の最低気温5度と報じられていたのでコートやスカーフなど用意したが、寒くても部屋の中は暖かいのだからと安心していた。ところが、寒くなって家庭ではストーブが手放せなくなったのに、公共施設にボイラーが入るのは11月になってからだそうで、ホール内には暖房無し!袖のないドレスなのにどうしよう。急きょ、ホールの中にあった古い暖房機のスイッチを入れる。しかし久し振りにスイッチを入れたためか初めなかなか点灯しなくて係の人は慌てていた。やっと点いてホール内は暖かくなってきた。でも楽屋が寒い。スタッフが暖かいお茶を買ってきてくれたり、隣りの公民館から電気ストーブを借りて来たりしてくれた。地元の人も「秋を感じる間もなく冬!」と言うほどの急な気温の下がり方だった。
お客さんは80人余り。ホールも広くはないのでそれでいっぱいに見えた。旭川で二人でコンサートを始めて丁度今回で20回目。ずっと事務局長を務めてくれたN氏は今年自分の会社をたたみボランティア的な仕事に携わるようになって結構忙しいらしい。足腰も痛いと言っている。まだまだ石井啓一郎啓子の演奏を聴きたいが誰か代わりに手を挙げてくれる人がいれば全面的に応援はすると話していた。
終演後は老舗のスナック「アドリブ」にて集う会。ご主人が重い病に臥せっている時石井が枕元で「愛の哀しみ」を弾いて以来、大の石井ファンになったママ。当夜は急な病気で来れなかった。お店はママがいなくても娘たちが引き継いでいるので開けられたが会いたがっていたママに娘がスマホをつなぎっぱなしにしておいて石井の演奏を聴かせた。電話の向こうでママが喜んでいるのが感じられた。また、今回はその娘の娘が自分の仲間を連れてお店に来ていた。若い人達に期待したい。
だが、来年の開催への手がかりを少しつかみつつ、確約できないままその晩は別れた。
街路樹ナナカマドの実が美しく色づいていた。
JR旭川駅の裏側 きれいに整備された公園になっている
]]>これはロータリークラブが提唱して、岩国市内の中学校を年2校ずつ3年間かけてがん予防の話とコンサートをセットにしてまわってみようという企画。当日前まで会場の図面や動線、タイムスケジュールなど細かいところまで何度も打ち合わせてロータリークラブの人達の熱意を感じた。少し前から台風の進路に当たっていて心配したが、前日に台風は通過。岩国市内の全中小学校はその日休校になったが大きな災害にはならずほっとした。そして当日の朝、爽やかに晴れ上がった空のもと、岩国中学校へ出向いて行った。
がん予防のお話しは今回はロータリークラブ会員の兼田氏が担当。話が15分くらいで、その後1時間のコンサート。岩国中学校生徒数約500人、麻里布中学校は生徒数約400人、それに先生たちと保護者の方々が加わって体育館には熱気がこもった。2校のうち、岩国中学校は錦帯橋にも近く、古くからの家が多くて近隣の移住も少ない地域、麻里布中学校の方は商売の家が多いとのこと。生徒の音楽の受け止め方には微妙な違いがあった。岩国中学校の方はおとなしく、しっかり聴いているという感じ、麻里布中学校の方は少しざわめきなどもあるが反応は大変良く、おもしろい音と感じた時には笑い声も。
プログラムは愛の挨拶に始まり、シューベルトのソナチネ、クライスラーの小品、ウェーベルン、最後はチゴイネルワイゼン。やはり目の前での演奏はCDなどの演奏とは全く違って、生徒たちがあんなに引き込まれ、聴き入っているのには先生方もびっくりしていた。
コンサートホールまではなかなか足を運べないような里山の中学校にも行ってみたい、もっとたくさんの保護者達も来れるような曜日設定にしてみたい、など、これからの企画に夢がふくらんだ。
岩国中学校での演奏(上下とも)
麻里布中学校での演奏
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