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こだわりのKAWASAKI
コックピット

大島正
自衛隊関連会社所長
絵に取り憑かれたエゴンシーレ、音楽に取り憑かれたモーツァルト、KAWASAKIに取り憑かれた大島。
酒をこよなく愛し、命のある限り夢を追う底抜け明るい武人。
今年6月から啓&啓倶楽部代表


私は、幼少時代から大の飛行機ファンであった。昭和30年代物心がついてまもない私は、飛行機のプラモデルをねだり、読めない字だらけの設計図を頼りに本能で組み立て、ブツブツ言いながら両手に飛行機を握り、寝るときも枕元において満足していたそうである。それから少年時代、実際に飛ばすことのできるゴム動力竹ひご飛行機からエンジン付きのUコン、さらには手元でコントロールすることのできるラジコン飛行機を作っては飛ばして遊んでいた。
飛行模型のお気に入りは、第2次世界大戦のレシプロ戦闘機たちだった。名機と言われるものは、どれもこれも格好がいいが国別団体造形合戦ということになると、日本の圧倒的な勝ちだと思う。中でも海軍の零式艦上戦闘機、最近では百田尚樹の「永遠の ( ゼロ ) 」・ジブリ映画の「風立ちぬ」などで脚光を浴びた通称「零戦」は、美しすぎる。また、陸軍も一式戦の「隼」から五式戦「キ100」までのすべてがいい形をしていて平均点を高める。この中には私好みで本稿に関係のある三式戦「飛燕」も入っている。
昭和40年代後半、40年以上も前となる高校時代には、模型に飽き足りず、エンジンで動くものを自分で操縦したくなった。そのワンステップとして16歳になるとすかさず自動二輪の免許を取り、父のバイクホンダDAXをいじっては乗り回していた。当時は、750ccのオートバイホンダドリームCB750FOURが発売したてで日本国中ナナハンブームが起こっていた。
その後、本題目にあるオートバイメーカーカワサキから国内頂点を目指して開発された750RS(Z2)が発売され、それは、スタイル・性能共に自分にとっては衝撃的なオートバイであり、欲しくて欲しくてたまらなかった。とはいえ学生の身分、当然入手することはできなかったが、いつかは手中に入れると心に誓った。ここに私とカワサキとの運命の出会いがあり、「こだわりのKawasaki」が始まった。
高校を卒業後、航空母艦から飛び立つ戦闘機を夢見て、本物の飛行機を操縦したく、昭和52年4月海上自衛隊の航空部隊に入隊した。残念ながら自衛隊には空母がなく理想の発艦はできなかったが、陸上基地である鹿児島県の鹿屋基地でP−2Jという大型対潜哨戒機に搭乗し、日本海・東シナ海の監視任務に就いていた。このP−2Jは、ターボプロップエンジン2発とジェットエンジン2発のユニークな機体で米国ロッキード社製のP2V−7を日本の川崎重工が日本仕様に改良製造したものである。この機体は、非常に優秀で83機製造されたが1機も墜落しておらずギネスブックに載っている。・・・川崎重工・・・私の憧れのオートバイを開発したカワサキではないか!好きな仕事で搭乗する飛行機と憧れのオートバイが同じメーカーで製造されていたのである。
部隊に配属された当時は、下っ端の飛行幹部候補生であり、憧れのカワサキナナハンZ2は大きく目立ちすぎるため、やむなき小ぶりの250ccカワサキZ250FTを購入した。(35年たった今でも調子よく走っている。)
その後も青森の八戸基地で大型対潜哨戒機P−3C、岩国基地では情報収集機EP−3に搭乗していた。これらの航空機も国内ライセンス生産でカワサキ重工製である。また文頭で記した陸軍の三式戦「飛燕」もカワサキ重工の前身の川崎飛行機製作所製なのである。
ここでカワサキの歴史を紐解いてみよう。
天保8年(1837)鹿児島県に生まれた川崎正蔵が明治19年(1886)川崎造船所を興したのが今日のカワサキ重工のはじまりである。そして大正5年(1916)には飛行機に着目、2年後には自動車と飛行機部門を設立、陸軍の命を受けた3年後の大正11年(1922)、イギリスのサルムソンを参考にした試作機2機を完成させ、中島製と共に正式機として採用された。アメリカのライト兄弟がエンジンとプロペラによる初飛行に成功した1903年(12月17日)からわずか19年後のことであった。こうしてカワサキは、軍需産業の分野で成功を収めていくが、昭和20年(1945)8月15日の敗戦によって、それは終焉を迎える。
戦後は、現カワサキ重工の前身である兵庫県の川崎航空機工業・明石工場の製品としてヘリコプターなどに加えてオートバイを主軸とすることになり国内市場と共に対米輸出品として力を入れていく。終戦まで飛行機設計製造していた技術者たちによって、飛行機技術がオートバイ開発に遺憾なくなく発揮され飛躍的に向上、成功を収めていったのである。
そして、昭和47年6月(1972)これまでの常識をはるかに覆す世界一のカワサキ900スーパー4(900cc)モデルZ1が海外に販売され、当時国内ナナハン規制(750cc以下)にあわせたカワサキ750RS(750cc)モデルZ2が同年12月に発表された。
私は、今から14年前、幸運にも念願のカワサキ750RS/Z2を入手することができたが、ボロボロであった。すぐバラバラに分解してのオーバーホール整備(レストア)により、甦らせることに成功。40年以上も前のオートバイとは思えない高性能・高い耐久性・高バランスと3拍子そろっており、これまで自分が抱いていた想像をはるかに超えるものでメチャ感激したことを今でも鮮明に覚えている。
この魅力に取り付かれ、庭先などで眠っているボロボロのカワサキオートバイばかりを入手しては、整備・レストア作業を繰り返し、10台近く走れるようコツコツいじってきた。
3年前自衛隊定年退職を期に、タイミングよく海外に販売されていたカワサキ900スーパー4/Z1も入手することができた。スリム・スレイク・セクシーの3文字がぴったりで「走ってよし」、「眺めてよし」、「整備してよし」 すべてに大満足である。
これまで搭乗してきた飛行機がカワサキ製、そしてこれらのオートバイも全てカワサキ製なのである。カワサキ製を堪能できるのも国防任務に従事しながら、趣味に没頭してきた私に対する家族の理解(呆れ)で成り立っており、常に感謝の止まらない日々である。
今後も、大空を馳せてきた飛行機の思い出と共にカワサキオートバイにまたがり、風との会話を楽しみながら「こだわりのKawasaki」を貫いていきたい。
岩国市在住
乗っていた飛行機
乗っていた飛行機
ゼロ戦と飛燕
ゼロ戦と飛燕
Kawasaki製バイク
自分で直して今も走り続けるバイク

これらもKAWASAKI製
Kawasaki製バイク2
Kawasaki製バイク3

制帽姿
制帽姿
 
 
美和町阿賀でのコンサート
11月7日美和町のまだ奥の阿賀ふれあいセンターを目指してナビが示す山道をくねくね、1時間余り行く。
途中でイノシシ狩りのおじさんに会った。今朝は雨が降ったので匂いが消えて見つけにくいと言っていた。猟犬にセンサーが付いているそうだ。それを見て後を追うらしい。途中1台も車に会うことなく山道を降り、やっとふれあいセンターに到着。別の道もあったのにナビが悪かった。でもそんなことがない限り、あの道を通ることはなかったのだから経験の一つ。
ふれあいセンターにはたくさんの人たちが集まっていた。岸根栗の焼いたのをいただいた。ホクホクしてとても美味しかった。
12時半からコンサートは始まる。
会場は阿賀小学校跡に残る講堂。古い建物なのだろう。入り口の前にはタイル張りの柱が3本立っていた。お客さんは知的障害者の人達とそれを支援している人達。毎年集まって餅つきをしたりカラオケで歌ったりしているそうだ。
今日のお客さんの中には8月の美和町のコンサートに来てくれた人もいたようだが、ほとんどの人がクラシックの演奏は初めての体験。でも気持ちよさそうに聴いてくれた。音楽は言葉を超えるものと改めて感じた一日でした。

銀杏が金色に光っていた。

阿賀コンサート

市長挨拶
岩国市長さんも駆けつけて挨拶
阿賀小学校講堂
阿賀小学校の講堂。学校はもう無い。
石蕗の花が鮮やかに咲いた。
晩秋。
ノーベル賞を今年二人の日本人が貰った。難解な学問由、全てはとても解らないが、テレビ、新聞で一般大衆にその業績が解り易く説明されるので、解ったような気持ちにさせられる。
凄いと思う。
まだ発見されていない真理を見つけ出す喜びは科学者のみならず誰しもが持っている人間の一つの特性ではあろう。とは言ってもそういった真理を見つけ出したいという強烈な欲求を持ち続けられる人のみが新たな真理の発見という世界に踏み込める。そうして見つけ出された真理は誰がやっても同じ結果を何度でも再現が可能という法則である事が真理なる所以である。やる人によって結果がまちまちで10人やれば10通りの結果が出るのでは困る。

じっと手を眺める。
ヴァイオリンを弾いていてこの楽章はこう弾きたいと思う事が決まれば、そうするには、といろんな事を考え、それを基に何十回も繰り返し繰り返し練習をし、何とかその思い通りの演奏を何回でも再現できるような努力を一心不乱にし続ける。(ノーベル賞を貰う学者にも負けず劣らず何十年も一つの事に向かい続ける)
そんな思いで演奏に臨むが、毎回微妙に、しかし確実に演奏は異なる。
10回弾けば10回の別の演奏になってしまう。ましては違う人間が弾けば、その人間の数だけ全く違う演奏結果が生まれる。これは自明の理である。むしろ他人には再現できない世界をひたすら求めているのだろうか。
誰が何度でも同じ結果を出す事のできる物理学の真理の対極に位置しているのだろうか。
だが、受賞の知らせがありその業績が報じられると無条件に嬉しい気持ちがふつふつと湧いてくる。

最近私は、曖昧なものへと価値観がだんだん傾斜しかかっているようである。
明らかではない物への魅力。漠然とした不確かな物への興味。
庭の奥の竹林を通り抜ける風の音の一つとして同じ音がない事をえらく感心して、濡縁でいつまでも聴き惚れている。
竹林にまた風が通り抜け、高い所が少し揺れた。夕暮れも深まり、空の色は刻々と生き物のように変わりつつある。
こういった現象は物理学の法則がもたらすものであろうが、見ていると、夕焼けの色の変わりようの耐え難い程の美しさに何の法則もなくて、ただそこに拡がりゆく空と雲があるだけのような曖昧な気持ちが、これから訪れるであろう夜の闇の拡がりのように静かに湧いてくる。

石蕗の花の輝きは夕闇の庭の奥へと消えた。